中井正清の子孫と先祖が気になる!家紋は?経歴とプロフィールも紹介!

中井正清の子孫と先祖が気になる!家紋は?経歴とプロフィールも紹介!

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お城の国、日本を造った人中井正清を知っておられますか?

あの江戸城も約半年で築き上げたそうですよ。

徳川家康の過酷な任務も、NO!とは言わず

設計から、人工や材料の手配までこなしたようです。

今回は、その中井正清にスポットをあて

中井正清の子孫と先祖が気になる!家紋は?

経歴とプロフィールも紹介!しちゃいます。




中井正清の子孫と先祖が気になる!

先ず、中井正清の子孫について調べてみました。

江戸幕府の大工頭を務めた中井家は、

初代から3代まで、代々大和守に任ぜられ、

上方にある城郭や寺社建築の設計図面を作成し、建築工事を行った。

中井大和守の正清(初代当主)

正侶(2代当主)、正純(後見役)正知(3代当主)の手による

建築設計図や肖像画などが残っている。

正清の跡を子の正侶(まさとも)が継ぐが

寛永8年に至りしばらくは、

叔父の正純(五郎助、内匠頭)が後見をし

やがて、正純の子、正知が正侶の跡を継いだ。

正知は隠居して浄覚と名乗り、正徳5年4月に他界。

正知の跡、正豊→嘉基→正武→正紀→正平→正路→正居・・・(3代略)忠重まで

代々大工頭として10代正居に至り、明治維新を迎える。

「中井家文書」300余点は正清に関するものが、その大部分を占め

年代的には慶長8、9年より元和年間に及ぶ十数年に集中している。

この時期は、関ケ原の戦いから大阪の陣に至る時代で、

徳川家の支配体制確立の準備時代である。

この時代に一作事方であっても

家康の信任が厚く諸家との交渉の深かった

正清の能力が長けていたことは言うまでもありません。

中井大和守正侶の仕事

中井正侶(1600~1631)中井大和守正侶

京大工中井正清(1565~1619)の子で中井家2代目、長吉郎。

正清の死後に家督を継ぐが、

若年のために家老的立場であった正清の従兄弟、

中井利次(1580~1626、信濃守または伊豆守)の後見を受ける。

1627年に大和守、従5位下を授かり、1000石の所領を受け継ぎ、

諸処の建築に携わるが32歳で死去。

子は無く正清の末弟正純の子、政知を養子とするが

幼年の為に正純が後見した

(この時、所領は500石となる)。

正清の時代には中井家は京だけでなく江戸・日光や駿府

名古屋にも手を広げていましたが、

家康に重用された正清の時分に比べて、

正侶の頃になると江戸の譜代大工の技術向上や秀忠の彼らへの優遇により

この頃より中井家の権勢は陰りを見せ始めていた。

正侶の代になると技術的な問題であろう江戸城本丸御殿の表向

(大屋根を架けていたと思われる)以外は京周辺に活動範囲を限定され、

代わりに江戸譜代大工の木原、

鈴木長次(1581~1635)鈴木近江守長次が伸長しているのが判ります

手掛けた建築(前後の正清・正純の事績も掲載、公儀作事)

大坂城

正清の死後、中井家を相続したのが長男・正侶(まさとも)。

正侶の相続後、最初の大仕事は、大阪夏の陣で落城した大坂城の再建だった。

二条城二の丸御殿

慶長8年(1603)、中井正清によって造営された二条城は

御水尾天皇行幸に際して大規模な修築が行われた。

現在の二の丸御殿は、その時に修築されたもの。

正侶が作事を担当している。

知恩院三門

清水寺本堂

下鴨神社楼門

上賀茂神社細殿

中井大和正純の仕事

中井正純は、初代・正清の末弟にあたる。

正純の時代は、3代将軍家光の治世と重なる。

東寺五重塔

知恩院本堂

岩清水八幡宮社殿

長谷寺本堂

このほかに、延暦寺根本中堂、高野山大塔、

高野山金剛峰寺徳川家霊台なども手がけている。

中井大和守正知の仕事

中井家3代目の正知が大工頭であった時代の主な仕事は、内裏の再建だった。

寺社の再建・修理は、次のものに携わっている。

八坂神社本殿

談山神社社殿

北野天満宮本殿

ほかには、東大寺大仏殿、東大寺二月堂などもそうである。

起こし絵図もあり、高台寺時雨亭起こし絵図の細かさには、相当驚かされるようです。

次に、中井正清のご先祖について調べてみました。

大工頭中井家文書より

中井家は、正清以前は巨勢(こせ)氏を称し

先祖代々大和国三輪明神(大神神社)の神職を務め

同国高市群巨勢郷に住んでいたようです。

祖父の正範より、履歴が知らされているが、「系譜」の記載によると

祖父正範は、大和国に生まれ孫兵衛とも称した。

天文7年1月2日に筒井順昭との戦で討死する。

その子の孫太夫は、母方の縁者である法隆寺西里村の法隆寺工匠中村伊太夫のもとで

養われのち中井氏を名乗る

正範の子が正吉(まさよし)で、同じく大和国天文2年(1533年)に生まれ

– 1609年7月31日(慶長14年7月1日))は、

安土桃山時代の法隆寺番匠(宮大工)。通称、孫太夫を名乗り

安土桃山・江戸時代前期の大工。京大工頭の初代

中井孫大夫正吉の子が永禄八年(一五六五)大和国に生まれ

京大工頭が正清となる。通称藤右衛門。

正清は奈良法隆寺門前の西里の出身、法隆寺の慶長度大修理にも名を残しています。

また四位下を昇叙し、武家としては大和守に任じられています。

中井正清は「御大工」とも呼ばれ、徳川家康の信任が厚く、

「何事も御普請方之儀、大和次第」と言わしめました。

中井家の子孫は「京都大工頭」として、寺町丸太町下がるに「中井役所」を構え

多くの大工棟梁を束ね、寺社仏閣の建立、修理に関わりました。

世界遺産に含まれているものも多々あります。

正清ゆかりの京都にある建造物は、

二条城、伏見城、知恩院、方広寺、内裏等々ですが

現存のものとしては仁和寺の金堂があります。

慶長度内裏の紫宸殿が寛永年間に移築されたものです。

中井家は代々、詳細な建地割図等を残しています。

また、家康の要請により、正清は大阪夏の陣に備え、

大阪城の見取り図も作成したとか・・・

慶長期の江戸城造営工事の時、天守や御殿の造営に

主導的役割を果たしたのが大工頭・中井正清という人物で

江戸城天守の姿を推定する史料が、

正清の子孫である中井家に伝わっているとのことです。

正清の子孫で現当主の中井正知さん(79)=埼玉県和光市=らが

数年前から四百回忌となる2018年に記念の催しを企画。

今日は彼の400回忌に合わせて、

下京区高倉松原下がるの「長香寺」で法要と肖像画、墓所の公開が行われました。

家紋は?

家紋についても調査してみましたが・・

中井正清の家紋は、まだ登録されていませんでした…。

※家紋の細部や名称については諸説あります。

わかり次第、追記させていただきますね。




経歴とプロフィールも紹介!

最後に、中井正清の経歴とプロフィールも紹介しま~す!

中井 正清は、中井正吉の子で通称は藤右衛門と呼んだ。

永禄8年(1565年) – 元和5年1月21日(1619年3月7日)

大和国出身の初代の京都大工頭であり

100人もの大工の名簿を作成し、細やかに管理されていた様子。

豊臣秀吉の聚楽亭を超える二条城の造営に力を発揮し

天下人家康に認められる。

江戸城の天守は70メートルもの高さに達し、

富士山に並ぶ景色に例えられるほど。

法隆寺番匠(みやだいく)で、法隆寺の屋根に上がるため

殿上人でなければならず朝廷より代々官位を得た。

官位は従四位下・大和守。

畿内・近江6カ国の大工等を支配し、1,000石を知行した。

だいたい、幕府の大工頭が大和守に任官されるというのは

異例の大出世といえようが、なるほどと思えるほどの大仕事を成している

日本の文化財建造物のうち、国宝に指定されているのは214件・262棟。

このうち、江戸時代のものは65棟で、中井家が造営に携わったものは

その3割にあたる19棟もあるそうだ。

また、日本の世界文化遺産11件のうち、

「法隆寺地域の仏教建造物」「古都京都の文化財」「古都奈良の文化財」

「日光の社寺」「紀伊山地の霊場と参詣道」の5件にかかわっているのだという

見たことのあるあの建物も、この建物も……と驚いてしまう。

関ヶ原の戦いの後、徳川家康に作事方として仕え、二条城建設に活躍した。

二条城、内裏、 日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など

徳川家関係の重要な建築を担当した。

大坂の陣の直前に、家康の密命により、

大坂城の絵図を作成したという逸話もある。

「江戸城天守」と記された袋に収められた指図(さしず、設計図)のうち

五重の天守を描いた建地割図(たてじわりず、立面または立断面図)がそうです

また中井家配下の大工・平正隆の手記「愚子見記」(ぐしけんき)でも、

慶長期の江戸城外観などがわかるようです。

大阪くらしの今昔館で、「世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事」を見る。

中井大和守正清の仕事

法隆寺

中井家初代・正清は、永禄8年(1565)、法隆寺門前の西里村で生まれた。

関ヶ原の合戦の後、豊臣秀頼の援助を受けて、

戦国の動乱で荒廃していた法隆寺の大修理が行われた。

その時の大工棟梁が正清である。

正清は、二条城、伏見城、知恩院、内裏の作事も担当する。

ほかには、最初の東照宮である久能山東照宮の社殿、

初代日光東照宮の社殿を移築した世良田東照宮の建物も正清の作。

東大寺大仏殿は、正清の手で仮堂の入用目録が作成され、

後に、中井正知の手で指図が作成された。

仁和寺・金堂

現在の仁和寺・金堂は、慶長18年(1613)に正清が棟梁を務めた

慶長度内裏の紫宸殿を移築したもの。

方広寺大仏殿諸建物并三十三間堂建地割図(部分)

方広寺の大仏殿は、秀吉の晩年の文禄2年(1593)に棟上が行われ、

その時の棟梁司が中井正吉だった。

大仏殿は慶長7年(1602)に焼失。

秀頼は慶長14年(1609)に大仏再建の工を起こし

正清は大工棟梁に任じられている。

さて、方広寺といえば、大仏鐘銘事件で有名だが

この時に、正清は、棟札に大工棟梁の名がないことを訴え出て

このことも大坂方を困らせる材料になったのだという。

経歴

中井正清(なかい・まさきよ)

永禄8年  (1565)大和国に生まれる。

天平16年 24歳の時、伏見において家康に謁見し二百石を給わる。

天平12年との説もあり、中井と改名した時期についても不明確のようです。

その後、三百石の加増を受けるが、理由や時期についても記載が残っていない。

慶長5年  関ケ原の戦後 五畿内近江6ヶ国中の大工大鋸の支配を仰せ付けられる。

後に徳川氏の作事方の重要な位置を占めることとなる

慶長6年  伏見城、二条城の造営に参画。

慶長11年 推挙により従五位下、大和守となっている。

慶長12年 京都にて仙洞御所の造営に当たっている最中、

12月に駿府城本丸失火にて全焼した際

迅速な参駿と駿府御天守の造営の功により

駿府城は家康の隠居後の城により太刀と馬を拝領する。

慶長14年 10月18日には、千石に加増され

給地を祖父と縁深いと思われる大和添下群城村にて七百四十四石余、

他を外川村・小和田村に得ている。

名古屋城の造営に際し大工棟領に任かされ、完成に至るまで

大久保長安・小堀政一らと共に中心的人物として活躍する

その後、禁裏造営に

慶長17年 院御所御殿の造営に参画し、従四位下に昇る。大工の棟梁としては異例であり

家康との信任の厚さと、工匠として優れていたことを示している。

慶長18年 「大和守隠密にて大阪城中江被遺、絵図等相認申候」と

大阪の陣を目前にした家康に、単なる大工頭に止まらず

知識を利用し活躍していることがわかる。

その前後も方広寺、増上寺、日光、春日大社などの造営にも関与している

慶長19年 9月21日、宇治川開削計画を上申・・

元和5年  1月21日に55歳に生涯を終えている。

職人魂にじむ下京区の長香寺で肖像画公開&講演「棟梁らしい顔」

長香寺で初公開される中井正清の肖像画(寺所有・「中井家大工支配の研究」より転載)

江戸初期に二条城(京都市中京区)や京都御所(上京区)などの建築に携わった

大工棟梁(とうりょう)、中井正清(1565~1619年)の四百回忌に合わせて

肖像画と墓の公開が21日、下京区高倉通松原下ルの長香寺で行われた。

子孫は「中井正清という大工を広く知ってもらう機会になれば」と期待を込めた。

(正清の子孫で現当主の中井正知さん(79)=埼玉県和光市=らが、

数年前から四百回忌となる2018年に記念の催しを企画。)

正清は徳川家康に才能を認められて江戸城(現皇居、東京都)

名古屋城(名古屋市)のほか、知恩院(東山区)、方広寺(同)

といった徳川家ゆかりの城や寺などを手がける。

その子孫たちは代々、「京都大工頭」として、

寺町通丸太町上ルに「中井役所」を構え、近畿地方の大工を統率。

幕府による寺社、御所などの建築責任者を務めた。

「正清を通じ木造建築に携わった職人を多くの人に知ってもらいたい」と

関係者で法要を営んだ後、寺の協力を得て肖像画や墓を一般公開することになり

寺所蔵の肖像画は、江戸前期の京狩野の絵師狩野永納によって描かれた。

正清に詳しい大阪市立大の谷直樹名誉教授(建築史)の講演によると

中井家が所有する重要文化財に指定されている肖像画より表情が硬く

大工棟梁らしい厳格さがにじみ出ていると谷名誉教授はおっしゃっていた。

また墓は高さ約3メートルの五輪塔で

同寺にある江戸中期以降の子孫たちの墓よりも一回り大きい。

公開にも携わる谷名誉教授は「現在、世界遺産に登録されている社寺などの多くは

正清や中井家が関わっている。

その上で、ものづくりの国として、建築を命じた人だけでなく

実際に作った職人を知り、検証することが大切であり

江戸時代に偉大な建築家がいたことを知ってもらえれば」と講演で力説され

ル・コルビュジエの作品が国境を越えて世界遺産に登録されているように

日本各地にある中井正清の作品もまとめて、

世界遺産に登録される日が来ますようにと・・・

(ル・コルビュジエの日本での建築物は国立西洋美術館)

公開は2018年4月21日午後1時半~3時。無料でした。

歴史フアンらが120人訪れたようだが、今後も主催を考えて欲しいものです。

<参考文献>谷直樹『中井家大工支配の研究』

平井聖編『中井家文書の研究』全10巻

高橋正彦編『大工頭中井家文書』

コトバンク

http://kotobank.jp/  (2012/06/19確認)

Yahoo!百科事典

http://100.yahoo.co.jp/  (2012/06/19確認)

大坂の陣と大坂城・四天王寺・住吉大社の建築 大阪くらしの今昔館

http://konjyakukan.com/link_pdf/nakaiketen.pdf  (2012/06/19確認)

大阪くらしの今昔館 大阪市立住まいのミュージアム

http://konjyakukan.com/index.html  (2012/06/19確認)

世界遺産をつくった大工棟梁 : 中井大和守の仕事 谷直樹, 新谷昭夫編集

大阪市立住まいのミュージアム, 2008

大坂の陣と大坂城・四天王寺・住吉大社の建築

―世界遺産をつくった大工棟梁・中井大和守の仕事Ⅱ

(企画展図録) 大阪市立住まいのミュージアム, 2012

ここで、おまけの豆知識!

法隆寺を参拝されたことはありますか?

大仏さんと並んで、奈良観光の定番になってますからね。

ただ、その場合、大抵は、南大門から入って、

金堂や五重塔がある西院を見て、次に夢殿のある東院へ・・・

という感じで拝観される事が多いでしょうね。

すべての拝観が終っても、あとは

再び南大門から出てJR法隆寺駅へ向かうか

あるいは、西院と東院の間の道を北へ行き、法輪寺や法起寺へ・・・

と行かれると思います。が、

西大門からはお出になられると・・

実は、この法隆寺の西大門を出てすぐの所から

しっくいで塗り固められた低い築地塀が続く趣のある町並みが現れます。

趣のある風景のこの場所は、西里(にしさと)と呼ばれる地区で、

昔、法隆寺を建て、そして、その美しさを維持していく大工集団が

先祖代々に渡って本拠地とした場所だったそうですよ。

中井正清(まさきよ)は、この西里で生まれます。

父・正吉(まさよし)は、法隆寺の修理・新築工事を一手に引き受ける大工でした。

正吉が活躍した頃は、ちょうど戦国後半に突入した頃・・・

織田信長の後を引き継いだ豊臣秀吉が天下を取り、

それまでの争乱で荒廃しきった社寺の修復・再建が急ピッチで行われ始めた頃で

京都や奈良、堺の大工職人たちが大活躍していたのです。

そんな彼らの指導者的な役割を果たしていたのが、中井家でした。

この頃の中井家は豊臣家の大工頭であり、

大坂城や京都・方広寺の大仏殿の建設も手掛けていましたから、むしろ豊臣専属・・・

他の大名が、中井家に仕事を頼む事など不可能な状況だったのです。

しかし、やがて、訪れた政権交代・・・秀吉亡き後、

その実権を握り始めた徳川家康は、若き後継者・正清を召抱えます。

徳川の威信を天皇に見せたい二条城の建設、

征夷大将軍の宣旨を受ける晴れの舞台となった伏見城のリフォーム・・・

正清は次々と大事業を手掛けていきます。

正清の腕前とともに、天下人のお抱え大工頭を配下に収めた事を

家康は大いに喜んでいたようで、それまでの徳川家の大工たちも存続させてはいるものの

序列としては中井家をトップに据えています。

正清も、期待に答えるように、その腕をふるいます。

慶長十年(1606年)の法隆寺の大修理の際は、

その棟札(むなふだ・建築の記念として建物内部に取り付ける札)には、

「番匠大工一朝惣棟梁橘朝臣(たちばなあそん)中井正清」と記して掲げました。

もはや、揺るぎない日本一の大工です。

あの大坂夏の陣では、城攻め用の大はしごなどの道具も製作・・・

しかし、この事が怒りをかったのか、

そのすぐ後に、正清の生家が豊臣配下の者に焼かれ、

その時に、西里の多くの家屋も焼けてしまったと言われています。

ちなみに、正清自身が、それをきっかけに京都へと移り住んだ事で、

西里に残った大工も、移転するか転職するかとなり

現在の西里は大工さんの町ではありません。

さらに、家康は、建築だけでなく、土木工事のいっさいも、

すべて正清を通すようにと家臣たちに命令し、全信頼をおく事となります。

慶長十九年(1614年)・まさにこの頃ですね。

やがて、家康が亡くなってから最初に埋葬された久能山の社殿も、

さらに翌年に改葬されたあの日光東照宮も正清が手掛けたのです

現在の建物は後世のものです

ただ、その家康の後を追うように、3年後の元和五年(1619年)

正清もこの世を去ります。

中井家は、息子・正侶(まさとも)に引き継がれ、

さらに、その息子・孫へと受け継がれていき

その後も、京都御所や下鴨神社、上賀茂神社などの大修理を

代々に渡って手掛けていく事になります。

思えば、豊臣時代の大坂城を手掛けたのは父・正吉・・・

大坂夏の陣で、その城を攻める道具を作ったのは息子・正清・・・。

その時の正清には、父が手塩にかけた豪華絢爛な城が

自らの加勢によって燃えゆく事への迷いはなかったのでしょうか?

正吉の父・正範(まさのり)は、三輪神社(大神神社)の神官をつとめた

巨勢(こせ)一族の人で、合戦に赴き戦死し

幼かった正吉は、母方の縁者である中井家にひきとられたと言います。

その息子である正清も、おそらくは、自らの作品に命をかける職人であると同時に

戦国のサムライでもあったのでしょう。

城は戦うために建てるもの・・・戦いに殉じる事こそ、本望なのだと・・・

築城の匠~家康専属大工・中井正清

正清は、死を前にして弟子たちに茶釜を配り、思いを託したようだ。

今日は元和度江戸城天守を手掛けたと思われる2人の大工棟梁、
中井大和守正侶と鈴木近江守長次について説明をします。
最後に中井家の建築物の一覧を紹介します。

正清

1604年…知恩院御影堂
1606年…二条城所々
1607年…江戸城天守、後陽成院御所
1608年…駿府城天守
1611年…新上東門院御所、江戸増上寺
1612年…名古屋城天守、駿府城
1613年…内裏
1614年…方広寺大仏殿
1615年…内裏女御御殿
1616年…久能山東照宮(~1619年)
1617年…日光東照宮、知恩院三門

正侶

1620年…愛宕社堂
1622年…江戸城本丸御殿表向
1624年…大坂城(~1627年)
1625年…二条城御殿
1628年…院御所(~1630年)、上賀茂社、下加茂社、河合社、貴布禰社
1630年…清水寺本堂・講堂(~1631年)

正純

1633年…知恩院御影堂(~1640年)
1634年…水口城、多賀社、比叡山東塔諸堂社(~1639年)
1635年…大山崎八幡宮
1636年…石清水八幡宮
1637年…江戸城(~1640年、木原・鈴木方が主)
1640年…愛宕(~1643年)
1641年…内裏(~1642年)、東寺五重塔(~1644年)、仁和寺(~1647年、新造修復)、高野山台徳院霊屋
1642年…院御所(~1643年)
1643年…高野山大塔
1645年…一条殿、志賀院、祇園社諸社、御旅所(~1646年、修復)、長谷寺本殿(~1650年)

『大工頭中井家建築指図集―中井家所蔵本』より
(この他『中井家文書』によると、
1617年の日光東照宮作事に正侶は利次と共に参加している

いかがでしたか?

今に受け継がれている宮大工の神髄を感じるきっかけになり

これから訪れるであろう神社仏閣には、違った視線で向き合う楽しみができました。